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2016.02.12 Friday

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    相談事例 遺産処分

    2008.10.30 Thursday

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       「人見さん、今すぐ来ていただけますか?」と懇意な司法書士の女史先生からの電話。取り敢えず駆けつけると一人の老婦人が応接室におられた。不安げな面もちでちょこんと座っている老婦人に簡単にご挨拶をして事情を伺うと次のような話である。
    突然、裁判所から呼び出しがきて、このような家が私のものだということでもらってきたのだが、どうしてよいのやら、この家のことをかすかに覚えているのは戦前、娘の頃母に一度だけ連れられていった記憶だけ。今はただ一人の相続人としてどないしようもないので、女性名の司法書士看板を見て飛び込まれたとのこと。
     一族がすべて死に絶えた相続物件は織り屋の集積地である西陣、水上文学で有名な「五番町夕霧楼」の旧遊郭街にある。裁判所の調査資料や謄本を見ながら、無断居住人が数家族入っていることなどで、「今から私が所有者ですから家賃をくださいと言ったところでもめるだけだし、持っていても仕方ないので売却できるものであれば処分をして税金を払い、残ったお金を孫にあげたい」と話され、老婦人は私に事後処理を一任し、大阪に帰っていった。
    何棟にも分かれた古い料理旅館のような建物になっていた。居住者全員に集まってもらった。事情を説明して、妥当な明け渡し料を払うことを提案した。この種の話は虚々実々のことがついてくるもので粘り強く交渉し、空き家不動産として売り物にすべく努力を始めたが、遊郭街に付き物のやくざ屋さんが、「しのぎ仕事として仕切らせろ」といってきた。断りに物件の向かいの組事務所に行くと、丸坊主の組長はいかつい武闘派である。三重苦のような仲介物件を抱え込んでしまった、と思ったが乗りかかった船である。
     いわくありげなこの屋敷の中庭に、上部に割れの入った三日月の石灯籠と、石仏の崩れかけた社があった。
     遊女が肺病などで死んだ後、野辺送りの席が設けられ、朋輩が若い死を嘆いて祀ったと聞かされた。除籍簿や長年の居住者から一族が死に絶えた原因を知り慄然とした。当家の跡取り娘が水量の多い夷川疎水入水自殺、それを悔やんで母親が奥の蔵で首つり自殺をはかった。亭主はその後廃人となり、料亭をたたんだのち病死。郭の賑わいとは別に、酒肉の料亭も遊女の悲しい思いが店を閉めさせたのかもしれない。
     二家族は立ち退き料を受け取り、すんなりと出ていったが、すぐには行き先のない方の行き先探しを手伝っていた矢先、テレビニュースで五番町の発砲事件が流された。夜の五番町飲屋街は火が消えたように静まりかえり、警察の鼠色の装甲車が二四時間、組事務所の向かいの屋敷前に、あぐらをかくようにとまってしまった。その後、撃ったのが例の件の武闘派の若い衆と分かり、やきもきしていると組長から電話が入った。「いまどこにいはりますねん。うちの売り物件売れしませんがな」と言うと「ホテルや、あと二人出したから明日には車どけよる」。狙撃犯と共謀者合わせて四人の手下を組長は失い、抗争相手の組に島も差し出し、手をつめて手打ちが出来たようであった。
     こんなことがあって、引き受けたこの物件がますます処分しにくくなっていたとき、今は亡き京都の不動産業界のドンに呼ばれた。烏丸通に面したビルに行ってみると、建物の計画図面を広げて、採算がとれるにはこの値やと馬鹿安値でまわせと強要、席の後ろにこの物件を持ち込んだ強面と住専幹部が立っていたが、こんな連中に売るものかと席を立ち、帰ってきた。
     そうこうしているうち高齢の居住者二人が相次いで亡くなり、僧侶を呼んで弔いを手伝った。残っていた居住者も老人ホームと親戚に連れていかれて、やっと空き家になり、本格的な売却営業を不動産屋らしくようやく始めた。しばらくして納得のいく方買ってもらった。
     大阪から来た老婦人が何度も頭を下げ、お金を持って帰ったのは、京都にバブルが始まる直前の頃だった。


    人見 明

    昔東京極、今寺町通り

    2008.01.25 Friday

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       寺町通りの弊社から北へ500m程上がった寺町通り広小路上がる「虜山寺」は、源氏物語や紫式部日記を執筆した紫式部の住居址であると、昭和41年、角田文衛博士によって明らかにされた。
       『紫式部日記』によると、紫式部は宣孝と結婚しても、育てた父・寺町の偽時の中河堤邸宅にしばしば長居した。宮仕えしている間にも、里第に預けてある娘の賢子(かたこ)が乳母にかしづかれながら母親の里下りを待っているのを気にしていたのである。
       寺町通りは平安京の時代、東京極大路にあたり、都の東外れであったが紫式部の時世は都の賑わいは東へ東へとなり、地価の安い、洪水の危険はあっても眺望のよいこの地に目をつけ、墾田を買収して宅地を造成した公家屋敷が建ち並んでいた。
       東京極大路には東京極川があり、二条以北の別名として『中河』と呼ばれており、鴨川との間の邸宅は優雅な佇まいを呈していたと思われる。中河堤に面した紫式部邸の向かいには染殿・清和院・土御門殿が建ち並んでいた。
       弊社の南、書道道具店古梅園前にある石碑「藤原の定家址」は定家閑職時代の住居であり、歌人として認められたて正二位権中納言となり、紫式部の父・『堤中納言』と呼ばれた為時邸の北、東京極一条(現寺町今出川下ル)に邸宅を構えている。
       平安京の都市計画は、朱雀大路は28丈(84m)巾で、東京極通り(現寺町通り)は10丈(30m巾)となっている。 今の河原町通りより広かったのだが、200年後の紫式部の時代には、光源氏が中河越えに式部邸を伺っているくだりは大路ではなかったようだ。
       寺町通りのいわれは、字の通り寺が建ち並んでいるからで、そのような都市改造をなそうとしたのは秀吉の支配統治である。鴨川の氾濫防止のため鴨川岸にお土居を築き、市中の神社を防波堤にして、移転出費で寺の権勢を削ぎおうとしたのであるが、秀吉時世にはかなわず、以後も寺の移転が江戸時代も続いたのは、やはり平安貴族の優雅な趣味と同じく鴨川堤の見晴らしが寺も欲しかったのかもしれない。
       しかし、宝永5年(1708年)の大火により連綿とした伽藍は焼けてしまい、鴨川東の新天地に移転再建され、その転出されて空いた跡地に庶民の使える土地となったようだ。
       寺町通りは、明治に市電が通る迄は中川と云う川が流れており、私の曾祖父の時代には鯉が泳いでいたという。 市電を寺町通りに通す工事の為、中川は埋められ暗渠となり一千年の歴史を地下に綴じ込めている。その当時、寺町通りの拡幅工事が行なわれ弊社側が切り取られ、今の13m巾となっている。昔の寺町通りは東に中川があり、西側は町家がせまっていた細い道であったのだろう。
       また角田文衛博士の著書によると、中河は「十一世紀の後半には殆ど水が絶えていたのではないかと思われる。 寺町通りに明治28年ごろまで流れていたのは、第二次の中川であって、第一次のそれとは水源も河床も異にしていた。」とある。
       第二次の中川は千本通りにあった禁裏が、東へ東へと移動し仙洞御所庭に流水を入れんが為、鴨川の上流相国寺北より引き入れ、寺町通りを通して五条の橋下へ落としたのであるが、明治になって鉄管で引けるようになって中川はお役後免となった。中川だけでなく市域にある本願寺や二条城などは各々専用水路を持ち、遠くは鞍馬川から引いているところもある。
       いま、寺町通りにはお寺は少なくなったが、弊社のある町名は久遠院前町といい、南の町名は要法寺前町、と昔のお寺の名前のみが生きている。

      人見 明

      地震に耐える住宅を考える

      2004.03.01 Monday

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         阪神・淡路大震災以後、耐震対策として木造住宅の補強・改修工事をいくつかしてきたが、2000年の鳥取県西部地震や2001年の芸予地震をみると、古い木造建築物の構造や特性を見直すことが求められています。
         本来、柔構造の木造にがんじがらめの合板耐力壁や筋違いの相性は「本当はどうなのだろう」と考えてみても、まだ伝統工法の耐震性能評価は確立されていません。
        昨年、水回り設備(フロ・トイレ・キッチン)の改造、白蟻対策相談の来客がありました。訪問・調査の中で築70年ほど、30年前に増改築され、2間半通しの明るい縁側を特に気に入っておられることが分かりました。しかし、そのガラス戸の上には2階の壁と2階瓦屋根の重みがあり、上下階耐力壁の不釣り合いがみられました。平面図面的にも南北外壁の釣り合いも悪く、同じ「振幅」でも縁側の方がさらに大きく揺れ、建物全体がねじれやすくなります。
         提案として‖竸綿箒の必要性、既存木造土壁住宅の変形性能=粘り強さ、9笋任覆柔耐力壁の長所、つ無だのある耐力壁―― などの打ち合わせのなかでガラス壁から「木組み格子」の柔耐力免震壁(外壁モルタル塗・内壁左官塗壁)とし、基礎は後打ちコンクリートベタ基礎とし、土台と緊結して床下通気改良も提案しました。
         阪神の震災直後、建築組合のボランティア活動として住宅の被害判定に参加。古い木造でもきちんと造られ、修理もされていた建物は、被害も少なく、修繕工事だけですむことに私も感心した話をする中で、水回りも含め、工事をさせていただくことになりました。
        今回の工事の中で、和室床下より防空壕が見つかり、床下がり原因の1つが判明、良土で埋め戻し、戦後処理の1つが済みました。
         神戸市内では、阪神震災の時、耐震性の低いアパート等で学生の死亡が多く、その日の5時46分から6時までの14分間で亡くなった人が92%ということは、いかに事前の対策が必要かはっきりしています。
         耐震改修費補助や住宅改修費5%補助は、生活基盤・社会資本としての住宅を守ることでもあり、そのためにこそ正しく税金が使われる行政が必要です。

        人見 明